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- 己を知り、人生に覚悟を。
- 『武士道というは死ぬことと見つけたり』
江戸時代の書物「葉隠」に記された、有名な一説。
ただ生き長らえて命を全うするのではなく、
主君のために死ぬことさえも覚悟せねばならない、武士としての精神、人生の道を説いている。
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近年日本では「マインドフルネス」が注目されています。
とりわけ「瞑想」が心を整える手法として、ビジネスマンを中心に取り入れられました。
心を整える瞑想ですが、武士や日本文化とも密接につながっているのはご存知でしょうか?
今回は瞑想とつながりが深い「仏教」も交えて解説していきます。

世界三大宗教のひとつである仏教は、紀元前5,6世紀頃に釈迦(ブッダ)が開きました。
インドで始まった仏教はアジアを中心に広がり、日本には6世紀頃の飛鳥時代に中国から伝来しました。
(伝来についての時期、流れについては諸説あり)
現在では世界中でおよそ3.5〜5億人ほどが信仰していると言われています。
仏教の代表的な教えに「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」があります。
これは人が人生で避けられない「苦しみ」の本質を見つめ、それを乗り越えていくための考え方や実践方法です。
最終的には、すべてのものごとが移り変わるという真理に目覚め、迷いや執着から自由になった“平穏で満ち足りた心の状態”へと導かれます。
この状態を「悟り」と呼び、仏教における理想の境地とされています。
仏教の修行として「瞑想」が挙げられます。
瞑想は先ほどお伝えした、「苦しみからの脱却につながる気づきを実践する」ために取り入れられています。そのためには雑念を払って心を整えることが重要とされました。
呼吸、姿勢、意識をコントロールして心を整えることで、気付きに近づくと考えられています。
日本では13世紀頃の鎌倉時代に生まれた禅宗から仏教と瞑想が密接につながりました。
禅宗は「座禅を組むことで己の心のあり方を見つめる」ことが特徴です。
座禅を通して人間本来の「仏性」に気づき、悟りを開くことが目的でした。
加えて、禅宗は「自分の心の真実(本性)を見つめることが仏」と考えられています。
武士が禅を学ぶことで、自らの生き方や武士道を見つめることにつながったと言えるでしょう。

日本文化と深いつながりのある神道は、八百万の神を信仰するのが特徴です。
自然と深くつながる理念は、仏教とはまた異なる考え方といえるでしょう。
一方、瞑想は神道の「清き明き心」を保つことと高い親和性があります。
「清き明き心」とは心が清らかで嘘偽りなく、曇りが1つもないまっさらな状態です。
加えて、神道では「中今」として「今この瞬間」を大切にすることも求められます。
過去や未来に意識を向けるのではなく、目の前の出来事に丁寧に、心を込めて向き合うこと。
このプロセスで自分自身の軸を整え、心のぶれをなくすことにつながります。
これらの心のあり方に繋げるために、瞑想は有効な手段として考えられました。
神道と仏教は異なる考え方ながらも、日本ではそれぞれ重要な心の支えでした。
そのため、「神仏習合」として古来から共存する流れが脈々と続いています。

日本のアニメでは劇中瞑想をして自らを鍛える修行をしているシーンが時折出てきます。
では、現実世界で武芸の強さが求められた武士と瞑想とはどのようなつながりがあったのでしょうか?
この段落では特に武士と関連が深かった「禅宗」に着目しながら、詳しく見ていきましょう。
鎌倉時代以降、武家社会が禅宗を後援しました。
これは座禅を通した実践的な悟りへの道のりが、武士の立ち位置と親和性が高かったためです。
座禅によって精神を落ち着けることは、常に死と隣り合わせだった武士の心の支えとなりました。
ちなみに政治的な経緯としては、当時鎌倉幕府が旧勢力(天台宗など)と対立したこともあります。
さらに、禅宗を広めた宗、元の使者は高い教養を持ち合わせていました。
彼らの知識を活用できるよう、外交・政治顧問として重用する目的もあったのです。
鎌倉時代以降では、後世に活躍した宮本武蔵・上杉謙信らの逸話にも禅の影響が見られるほどです。
このように生死を見つめながら悟りと行動が一致する禅宗の思想は、武家社会で大きな影響を持ちました。
武士にとっての悟りは必ずしも宗教的な解脱ではありません。
「静かに死を受け入れる準備」を他者に誇示せず、心を整え粛々と行動する姿勢が美徳とされました。
何より、武士道が持つ「潔さ」と「覚悟」は仏教の「空」の概念と響き合います。
万物には不変の実体がないと捉える「空」の概念は、執着から放たれる意味を持ちます。
つまり、今この瞬間を一所懸命生き抜き、最後には潔く散ることが「生」の執着からの解放と捉えられたのでした。
これらの考え方は江戸時代に刊行された『葉隠』の教えにも通じるところがあります。

禅宗では修行として座禅が取り入れられます。
座禅で瞑想を行うことで「今この瞬間」を意識し、心を整えていました。
また、禅宗では座禅に加えて日常生活全てが修行とされています。
食事や掃除、作法といった日々の動作に心を込めることで、自らの精神統一を図りました。
これが現代に通じるマインドフルネスの源流とも考えられます。
そして、武芸、書、茶道、香道などもすべて“道”としての修行です。
人間としての良心を保ち、鍛錬しながら正しい心のあり方を自らに問い続ける“道”の理念は、禅宗や瞑想と深い関連性を生み出しました。

武芸というと敵を打ち倒す強さをイメージしがちです。
しかし、武士にとっての本当の強さは「己の弱さから目を逸らさず、打ち勝つこと」でした。
だからこそ瞑想によって自らと向き合う修行が武士にとって適していたのです。
瞑想によって「私利私欲や弱さを封じること」と、「冷静沈着に物事を進める姿勢」が養われることを目的としていました。
主君に仕えるには「無我・無心」の状態を保ち、私利私欲に流されない冷静な判断が求められます。
また、無駄な力をそぎ落とすことは仏教でいう「煩悩を断つ」ことと重なります。
これは瞑想に加えて、蝋燭切りの修行を通して精神統一を図った点ともつながりますね。

武士道と瞑想、仏教のつながりを紐解くヒントとして、「文学」が挙げられます。
ここでは2つの文学を通して、三者の関係性を見ていきましょう。

平安時代中期に成立した『源氏物語』では、主人公光源氏の生涯が主な題材です。一見華やかに見える彼の生涯でしたが、栄華に反して晩年は苦悩することも多かったようです。
このように儚さ・移ろいをしみじみと味わう感情表現を「もののあはれ」と言います。
全ての物事は不変でなく、変わりゆく中で消えゆく儚さを情緒溢れる執筆で捉えた本作は、平安時代を代表する文学となりました。

仏教と瞑想、武士道の関連性を表す文学として『平家物語』も見逃せません。
こちらは「この世に不変のものはない」ことを表す「無常」を、平安時代末期に台頭した平氏の興亡と絡めた作品です。
冒頭の「祇園精舎の鐘の声 諸行無常の響きあり」という文章は聞いたことがある人も多いのではないでしょうか。
筆者も学生時代の国語で、暗記テストとして出題されたのを覚えています。
平家は一時栄華を極め、政治の中心に立ちました。
その台頭ぶりは「平家にあらずんば人にあらず」と言い放った逸話があるほどです。
現代語訳にすると「平家一門でなければ、もはや人間ではない」ということ。
かなり傲慢な口ぶりですが、その後ライバルの源氏との戦いを通して平家は滅亡します。
諸行無常に飲み込まれた平氏の姿は栄華や人生が一瞬で儚いことを示したのでした。
無常は「物事が絶え間なく変わりゆく姿」を表す理を示します。
それに対して「もののあはれ」は無常をしみじみと捉える感情を表しました。
光源氏と平氏。
両者とも栄華を極めた人々でしたが、命の終わりには抗えず儚く去っていきました。
人生や栄光は永遠に感じつつも一瞬であるからこそ、「今をどう生きるか?」という問いが生まれたのです。
生死をかける武士にとって「今この一瞬の覚悟」は必須。
「もののあはれ」と「無常」の融合は、後に武士の潔い生き様へとつながっていくのです。

「仏教」「瞑想」「武士道」はすべて“心の軸”でつながっていると考えられます。
自らと向き合いながら今この瞬間を大切に生き抜く姿勢は、現代の私たちへ人生の道標を与えてくれるように思います。
時代や肩書を超えてなお私たちの生き方にヒントを与えてくれる瞑想や仏教。
筆者も悩んだ時に瞑想を実践し、心を整える習慣を取り入れたいと思います。