
お米は食料の役割だけじゃなかった!?日本の稲作が担った歴史と食文化【前編】

「日本のお米はとても美味しい」
「お米を使ったおにぎりや和食の味は絶品」
そのようなお話を聞いたことはありませんか?
確かに、昨今は健康志向の高まりで和食やお米が世界中で注目されるようになりました。
しかし、お米と日本のつながりは健康志向だけでなく、歴史や文化と密接に結びついています。
今回は日本のお米と稲作について、歴史の視点から解説していきましょう。
日本のお米と歴史のつながりとは?

まず、なぜ日本の食卓にお米が浸透したのか。
その歴史を一緒に見ていきましょう。
① 縄文〜弥生時代:
稲作の伝来と普及
稲作が伝来したのは縄文時代。西暦に直すと紀元前6000年〜3000年の頃です。
かつては動植物を狩猟・採集して食料としていましたが、この手法は安定して食料を確保できるとは限りませんでした。
その代わり、稲作が伝えられたことで狩猟・採集と比べると比較的安定して食料が得られるようになります。
当初は九州地方で稲作が始まり、弥生時代になると全国的に広まっていきました。
現代は水田で作るのが主流ですが、伝来した当時は焼畑や雑穀栽培を行っていたようです。
稲作が伝来したことで、人々が村を形成しながら定住するようになりました。
同時に以下の事情から、貧富の差や権力争いが起こるようになったともいわれています。
稲作による貧富の差や権力争いの原因
- お米は蓄えられる特性を持つことから、「富」としての役割を果たした
それに伴いお米(富)を持つものとそうでないものといった貧富の差が生まれた - 稲作に必要な水や田んぼを巡り、村同士で争いが起こるようになった
同時期に青銅器や鉄器でできた武器が生まれ、村同士の戦争も起こるようになった - 他の村との戦いや村の運営について指揮を取るため、首長(権力者)の存在が生まれた
後に権力者は豪族となり、日本という国の形成に重要な役割を果たすことになります。
② 奈良時代:
お米が税の役割を果たし始める
その後日本の国ができ、8世紀の奈良時代にお米が税の役割を果たし始めます。
ここでは代表的な仕組みを2点ご紹介しましょう。
(1)班田収授法:はんでんしゅうじゅほう

6歳以上の男女に国が「区分田」と呼ばれる土地を貸付け、それにより税を納める制度です。
国民は区分田を活用し、一定のお米を税として納める義務を課されました。
この区分田から生まれたお米の税を「租」(そ)といいます。
租は地方の財源として活用され、各国の倉庫に保管されました。
現代でいうと、さながら「地方税」と役割が近いでしょう。
国は6年に一度戸籍を作成して、土地を国民に貸し付けたと言われています。
土地は本人が亡くなった時に国に返還するものとし、所有は認められませんでした。
なお、租以外でも国民は以下の税を納めることが求められたようです。
- 租:区分田の収穫からお米を一定程度納める
- 調(ちょう):絹や布、紙や海産物などの特産物を国に納める (国税に相当)
- 庸(よう):都で10日間労役につくか、布を納める (国税に相当)
これらの税は国民に負担が多く、逃げ出す人も多かったようです。
さらに貸し出す土地がなくなってきたことから、この制度は徐々に破綻していきました。
(2)墾田永年私財法:こんでんえいねんしざいほう
「班田収授法」が破綻しかけたことから、政府は所有を認めなかった条件を徐々に撤廃します。
最初は「自分たちが開墾※した土地を本人、子、孫の3代にわたっての所有を認める」としたものでした。
※開墾(かいこん):土地を耕すこと
しかし3代限定の保有では、モチベーションが上がらなかったのか開墾のペースが鈍かったようです。
そこで最終的には、「墾田永年私財法」として、自分たちで開墾した土地は永久に保有を認められることとなりました。
これにより貴族や寺院が力をつけ、開墾した土地は「荘園」として扱われ始めます。
荘園は貴族や寺院の私有地として活用され、税収が減り貧富の差がより拡大していくことにつながりました。
ちなみに「墾田永年私財法」は中学歴史でテストに頻出するものの、漢字の難しさから回答が難しい問題として認識されています。
筆者も中学生当時は冒頭の「墾」の漢字がなかなか覚えられず苦労しました。
この認識は世代共通だったのか、「墾田永年私財法」をモチーフにした歌や看板広告が時折出て話題となりました。
③ 平安〜室町時代:
「年貢」の成立と生産能力が向上
平安時代末期から「年貢」(ねんぐ)と呼ばれる税制が確立します。
年貢のシステムにより、農民は荘園の主人である領主(地主)に米を年貢として納める義務を課されました。
明治時代に撤廃されるまで、年貢は長い間税制として運用されていくこととなります。
また、鎌倉時代には以下の手法を用いてお米の生産能力が向上していきました。
- 牛や馬を使って土地を耕す
- 水車で田んぼに水をひく
- 鎌、クワなどの農具を金属で生産する
④ 戦国〜江戸時代:
「お米の生産量=国力」の認識が確立

天下統一を果たした豊臣秀吉が、「太閤検地」(たいこうけんち)と呼ばれるシステムを取り入れます。
太閤検地とは?
ある土地の生産力を米の量で表す単位に統一したものです。
単位は「石高」(こくだか)が採用されました。
大人1人が1年に食べられるお米が生産できることを「一石」と表します。
農民が納める年貢も、この石高に応じた年貢率が設定されました。
ちなみに「太閤」は秀吉のことを指します。
当時天皇を補佐する「関白」の役目を子に譲った人である「太閤」の役目を有していたことからそう呼ばれました。
※ただし、秀吉の場合は血縁関係にあった子ではなく、養子だった豊臣秀次(とよとみひでつぐ)に関白職を譲っています。
荘園制度は土地の所有者や権利関係が複雑だったことが課題でした。
そのため、秀吉は太閤検地の際に「一地一作人」として、土地の所有者と耕作者を同一人物にすることを定めます。
これにより安定して年貢を納められるようになったようです。
石高が多い=国力が強い?
また、秀吉が作った「石高」の概念は国力と見なすこともできます。
先述の通り、石高は「大人一人が1年間に食べられるお米の生産量」を指します。
つまり、石高と年貢率によってその国の兵力を測ることができたのです。
そのため、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は敵側の武将を石高の低い国へ転封、減封することで反乱を抑えたと考えられます。
逆に、味方を石高の高い国へ転封、加増することで江戸幕府の基礎固めを行いました。
そして、江戸時代では、当時の武士のお給料は「お米」で支払われていました。
お米は純粋に保存が効く食料となるだけでなく、商人に売れば貨幣に変えることも可能です。
江戸時代はまだ貨幣のレートが不安定だっただけに、お米は財産としての役割を担っていたのでした。
※ここでいう「国」は現在でいう「都道府県」と似た意味を持ちます。
⑤ 明治時代:
「地租改正」に伴いお米が税の役割を終える

明治時代になると、富国強兵に伴い多額の現金が必要となります。
そのため、「地租改正」(ちそかいせい)を行い土地に応じた税を現金で支払うよう国民に求めました。
これにより奈良時代から続いていた税としてのお米の役割が終わりを迎えます。
地租改正についてはこちらの記事で解説しています。あわせてご覧ください。
⑥ 大正時代:
価格高騰による「米騒動」の勃発
1918年に日本全国で「米騒動」と呼ばれる暴動が起きました。
事の始まりはお米の値段が急激に値上がりしたことです。
以下の条件が重なったことで、前年と比べると2倍以上値上がりしたと言われています。
- 第一次世界大戦に伴うインフレ
- 都市部の人口増加
- シベリア出兵による思惑買い
- 地主や米穀商が行った買い占めと売り控え
最初は富山県にある漁村の主婦たちによるお米の安売り要求でしたが、やがて全国的に波及し、暴動にまで発展していきます。
この暴動によりのべ25,000人以上の検挙と、鎮圧のため90,000人ほどの兵士が動員されました。
米騒動の後に生まれた「日本初の政党内閣」
後に一連の騒動の責任を取るために当時の内閣であった寺内正毅内閣が総辞職します。
次代の内閣となった原敬は、日本初の本格的な政党内閣となりました。
それまでは以下のメンバーが中心となって政権を担っていました。
- 薩摩(現在の鹿児島県)、長州(現在の山口県)藩出身者
- 皇族・華族(日本でいう貴族)
「藩閥・官僚内閣」とも呼ばれたこの人選は、民意と政治の分離が課題となりました。
米騒動がきっかけで原敬は「平民宰相」と呼ばれるようになります。
選挙で選ばれた政党出身者が中心となって生まれた原内閣は、民意が政治に反映されることが期待されました。
令和の米騒動
2024年秋からお米の価格が急騰し、この様子が「令和の米騒動」と呼ばれました。
これにより政府が備蓄米を民間に放出して対応しています。
このように、お米はただの食料品でなく「貨幣・富」の役割を果たしていた時期がありました。
さらに、お米が大量に生産できることは「権力」「兵力(国力)」の象徴を表していたのです。
現代では一部想像が難しいところもありますが、お米は日本の文化・食を支える重要な役目を担っていたことは間違いないでしょう。
まとめ:
日本の食に欠かせないお米は、歴史でも重要な役割を果たしていた

いかがだったでしょうか。
このように、日本におけるお米は食料以外でも重要な役割を果たしていました。
長い歴史の中で時に税金や財産として貴重品として扱われるというのは、現代に生きる私たちからしたら不思議なことだと思います。
さらに、財産としてのお米を生み出す土地や水は、時に争いや権力も発生させました。
それだけ、お米が私たちの生活に担う役割は現在と比べて圧倒的に重いものだったと推察できます。
後編では、日本のお米から生まれた食文化について解説していきます。
こちらの記事は後日公開予定ですので、しばらくお待ちいただけますと幸いです。















