
有田焼とジャポニズム
この記事では、有田焼について2回にわたりお伝えしていきたいと思います。
1回目は、まず陶磁器とは何か?有田の歴史・海外での評価についてを中心にお伝えしていきます。
陶磁器と陶器の違い
有田焼とは、佐賀県有田町を中心に製造される磁器で、日本で最も古い磁器の一つとして知られています。(江戸時代前期のものは、古伊万里焼と呼ばれています。)
有田焼の特徴は、ガラスのように滑らかで、硬くて白い生地が特徴です。また、高温で焼成されることにより、水の吸収がほとんどなく、食器としての耐久性にも優れています。他の地域の焼き物が土の質感を活かした「陶器」であるのに対し、有田焼の特徴として、もう一つ、洗練された白磁を活かした色彩豊かな絵付けがあります。見た目の美しさと実用性を兼ね備えた磁器として、日常使いはもちろん、美術品や贈答品としても高い評価を受けています。

※写真のお皿は古伊万里と呼ばれる江戸前期のもので、今では古美術品として
多くのコレクターがいらっしゃいます。
有田焼の歴史
有田焼の誕生は1600年代初頭、今から400年も前になります。朝鮮出兵の際に日本に来た陶工、李参平が佐賀県有田で磁器の原料である陶石を発見したことが、有田焼の始まりです。李参平はこの陶石を使って日本初の磁器を焼成することに成功し、それが有田焼の誕生となりました。この発見により、有田は日本における磁器の生産地として発展していきました。これ以降、有田焼は急速に技術が向上し、藍染の染付や華やかな色絵など、独自の技術と美意識が磨かれていきます。

※写真は李参平(りさんぺい)が陶石を発見した泉山磁石です。
日本初の磁器として誕生
有田焼の始まりは、17世紀初頭、鍋島藩初代によって朝鮮より連れてこられた、李参平(りさんぺい)が泉山で磁器に適した陶石を発見したことにあります。それまでの日本には陶器は存在していたが、磁器の製造はなく、日本で初めて磁器が焼かれた瞬間であり、有田焼の歴史の出発点となりました。従来の土もの(陶器)とは異なり、白く硬質な磁器は当時の人々にとって革新的な存在で、瞬く間に人気を集めました。
江戸時代には、有田焼の多くが「伊万里焼」として出荷され、長崎・伊万里港から国内外へと広がっていきます。日本の磁器文化はここ有田から始まり、日本中の焼き物の流れに大きな影響を与える存在となっていきます。

江戸~明治時代の海外への輸出
有田焼は江戸時代に入ると、技術の向上とともに全国へと流通は広まり、その美しさから「伊万里焼」として知られるようになりました。これは有田焼が当時、物流の中心地である伊万里港から出荷されていたことに由来しています。
江戸時代中期には色絵の技法が発展し、(それまでは青1色の絵付けだった)
赤、青、金を使った豪華な装飾が施された華やかな様式が生まれました。また、有田焼はオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出され、国際的にも高い評価を受けました。この時期の有田焼は、貴族や王族の食器としても愛用されていました。

幕末から明治時代にかけて、海外市場への輸出が本格化していき、有田焼はさらに発展していきます。この時期には西洋文化の影響を受けたデザインが取り入れられ、輸出向けの製品が多く生産された。特にパリ万博などの国際博覧会に出品された有田焼は、その美しさと精緻な技術が評価され、世界中に日本の磁器技術の高さを知らしめました。輸出を意識した大型の装飾品や西洋風のデザインの食器などが多く作られ、ヨーロッパやアメリカの富裕層の間で人気を博した。
ジャポニズムの誕生
1867年の(パリ万博)からジャポニズムのブームが始まったといわれています。
ヒエラルキーの無い価値=ジャポニズム
西洋の絵画は、ヒエラルキー的に、神様や貴族が絵がかれることが多かったが、
日本の絵は、自然が主役とされており、(自然と共存する文化)として広まっていきました。日本の絵には余白があり、日本特有の美意識、として海外での評価は高く、
日本の美意識は有田焼を通じて広がっていきました。
この記事では、有田焼が発展していった経緯と、なぜ有田焼が世界で高く評価されたのか、お伝えいたしました。
次回は、有田を代表する4つの様式と現代の有田焼をご紹介したいと思います。













