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皇居はなぜ東京にあるの?その謎を歴史から紐解いてみよう

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天皇陛下や皇族の皆様のお住まいである「皇居」(こうきょ)。
現在は日本の首都である東京都に存在しています。

皇居は皇族のお住まいという役割に加えて、美しい外観や皇居の周辺を走る「皇居ラン」のイベントなどで、多くの日本人から愛されている建物です。

一方で、皇族にまつわる日本の長い歴史や文化財の多くは直線距離で約360km離れている京都府に多く存在しています。
筆者も中学時代の修学旅行や大学時代の古美術研修で京都へ訪れました。

日本の首都は東京でありながら、歴史を知るための重要なスポットは京都である。
なぜこのような違いが起きているのでしょうか?

今回は「皇居」や日本の歴史を織り交ぜながら、その謎に迫りましょう。

現代の皇居について

居内にある「二重橋」

現代の皇居は東京都千代田区の中心部にあります。
その敷地は広大で、総面積は千代田区の1割ほどの面積を占めると言われています。

主な構成

皇居は皇族一家のお住まいに加えて、以下の建物で構成されています。

  • 宮殿
    天皇陛下が公務を行う場所です。
    また、宮中の行事でも使用されます。
  • 紅葉山御養蚕所
    歴代の皇后が御養蚕を行う建物です。
    明治天皇の皇后である昭憲皇太后から始まりました。
  • 宮内庁(くないちょう)
    皇族のご活動を支え、皇室の施設の管理を行う行政機関も皇居内に存在しています。

皇居をご覧になるには、事前の申し込みまたは当日の整理券の確保が必要です。
ただし、「東御苑」(ひがしぎょえん)という庭園は一般公開されています。
興味のある方はぜひ訪れてみることをおすすめします。

なぜ皇居が東京に移動したの?


明治時代に皇居が東京に移るまで、皇居は長い間京都府にありました。
皇居が東京に移転してから2025年現在まで、約160年経過しています。

一方で、京都は794年の平安時代から天皇陛下が住まわれています。
細かい住所は異なれど、1868年までおよそ1000年以上お住まいになられました。

この時間の長さは歴然ですが、なぜ京都から東京まで皇居が移動されたのでしょうか?
その理由は日本の歴史が深く関わっています。

皇居の建物

皇居の建物はかつての「江戸城」がも使われています。
「大政奉還」により江戸幕府が終わり、明治時代が始まった1868年から使われ始めました。
外観が城のような雰囲気になっているのはこれが理由です。

1888年からは「宮城」という名前でしたが、1948年に廃止されます。
代わりに現在で使われている「皇居」という名前で呼ばれるようになりました。

江戸城の持ち主

江戸城の元の持ち主はかつて日本を治めていた「江戸幕府」(えどばくふ)です。
ここには歴代将軍である「徳川家」(とくがわけ)が住んでいました。

日本は約700年ほど武士が世の中を治めていた時代がありました。
その中でも江戸幕府は最後の「武士が運営していた政府」だといわれています。

武士が政治の実権を握る間、天皇陛下を中心とした皇族や公家で構成される朝廷(ちょうてい)は京都に住みながら、権威の象徴として役割を果たしていました。

江戸幕府と徳川家

江戸幕府は1603年に、徳川家康(とくがわいえやす)が開いた政府です。
現代の東京都に拠点を構え、15人の将軍によって200年以上日本を治めてきました。

徳川家康については、こちらの記事でも
詳しく解説しています。

江戸時代には、現代でも愛される多くの日本文化が生まれたのもこの時代です。
浮世絵(うきよえ)や相撲(すもう)、歌舞伎(かぶき)、落語(らくご)などが代表例です。

加えて、昔の日本を舞台にした「時代劇」も、多くのモチーフは江戸時代です。
「暴れん坊将軍」や「水戸黄門」など、なんとなく見たことがある人もいるのではないでしょうか。

ちなみに現代多くの日本人に愛されている「マツケンサンバ」という曲があります。
歌手である松平健さんや「暴れん坊将軍」の主人公「徳川吉宗」(とくがわよしむね)を演じました。
吉宗は江戸幕府8代将軍です。

原曲は2004年に一般発売されました。
当時も人気でしたが、2020年頃にSNSによってリバイバルブームを起こします。
その人気ぶりは定期的にコラボカフェやコラボCMが放映されるほどでした。

松平健さんは「上様」という愛称で多くの人々に親しまれています。
その理由は、「上様」が将軍の呼び名に由来するためでしょう。

江戸幕府が東京に開かれた理由

徳川家康が江戸幕府を開くまでは「戦国時代」と呼ばれています。
この時代は多くの武士が自分が政治のトップとなるべく、ライバルと争っていた時代でした。

武士の最終目標は、「天下統一」(てんかとういつ)。
自分が国を1つにまとめて、政治の実権を握ることが悲願だったのです。

徳川家康は当時以下2つの国を領地としていました。

  • 三河(みかわ:現代の愛知県東部)
  • 駿河(するが:現代の静岡県中部)

しかし、当時より権勢を誇っていたライバル豊臣秀吉(とよとみひでよし)の手により、現代の東京である江戸に領地を移されました。

豊臣秀吉いわく、「東側の守りの要」として徳川家康を移動させたようです。
しかし当時の江戸は発展しているとはいえず、不便な場所でした。

その後徳川家康が天下統一を実現し、江戸幕府が開かれました。
およそ200年の時をかけて交通や商業が長い時代で発展し、江戸は日本有数の都市となっていきます。

鎖国によるシャットアウト

江戸時代当時、幕府は外国との交流を極端に制限する「鎖国」(さこく)という政策を行っていました。

その目的は「キリスト教を広めない」ため。
戦国時代ポルトガル人によって広まったキリスト教の布教・信仰を禁止します。
これにより江戸幕府による安定した政治を運営する目的がありました。

キリスト教を広めたくなかった理由

当時の江戸時代は、将軍をトップに「士農商工」という身分の違いがありました。

身分説明
武士。侍ともいう。
政治や軍事を担い、支配階級にもなっていた。
農民。
農作物を作る人。「年貢」(ねんぐ)と呼ばれる税を納める義務があった。
職人。
工芸品の生産に携わった。「大工」(だいく)「左官」(さかん)「」(とび)など建築に関わる仕事は花形だった。
商人。
商品の売買を担った。その中でも和服を取り扱った「呉服商」(ごふくしょう)は明治時代以降に百貨店へ移行した。

キリスト教の教えでは「人は神様の前では皆平等」とあるため、幕府の身分システムにはそぐわなかったのです。

おことわり

①本記事では特定の宗教を誹謗する目的はありません。
あくまで江戸時代当時の情勢を説明するために、本内容を取り上げている旨ご了承ください。
なお、現代の日本では憲法第20条で、「信教の自由」が保障されています。

②近年の研究結果では「士農工商」は身分制度ではなく、あくまですべての国民の総称として使われていたという見解です。
そのため現在の学校教育では身分のヒエラルキーとしての役割はなかったという見解がされています。
これに伴い、現代の教科書の記載からは外されています。

ペリーによる黒船来航

写真は静岡県下田市にある「ペリー艦隊来航記念碑

鎖国政策を行っていた最中、1825年にアメリカ人のペリーが黒船という大きな船によって日本に突然訪れます。

その目的はいくつかありますが、そのうち一つは日本にアジア地域の貿易での中継地点や捕鯨船の補給地としての役割を果たしてもらうためでした。

日本は当時鎖国政策の一つとして、外国の船が来たら武力で追い返す「異国船打払令」(いこくせんうちはらいれい)がありました。
しかし、西洋ではすでに産業革命によって強大な国力と軍事力を持っています。
武力の差から、彼らを追い払う力は日本にはありませんでした。

ペリーは圧倒的かつ近代的な武力をもって日本に開国を強く要求します。
とうとう幕府は、彼らの要求を飲んでしまったのでした。

開国による政策の混乱と民衆の不満

武力を恐れた江戸幕府は天皇の許可なくいくつかの条約をアメリカと結びますが、その内容は日本にとって不利なものでした。

また、ペリーの来航に続いてイギリス、オランダ、ロシア、フランスとも同様の条約を結びました。

不利な条約により国民の生活は一気に苦しくなり、また当時の天皇は外国人を嫌っていたこともあり、勝手に条約を結んだ幕府に対しての不満が徐々に高まっていきました。

民衆の分断と幕府の政策

民衆は天皇を敬いながら外国人を排除する「攘夷派」(じょういは)と開国した上で欧米に学びながら近代化し国力を上げていく「開国派」(かいこくは)に分かれ、対立を深めていきます。

一方で幕府は今まで政治の中心にいなかった朝廷と手を結ぶ「公武合体」(こうぶがったい)を行いますが、事態の解決にはいたりませんでした。

江戸幕府の命により京都の治安維持と攘夷派の過激層を取り締まる「新撰組」(しんせんぐみ)が活躍したのもこの時代です。

彼らの活躍は後世でも時代劇のモチーフとしてよく取り上げられるようになりました。

倒幕運動と大政奉還

大政奉還によって武士の世が終わり、天皇を中心とした新しい国づくりが明治時代から始まりました。

欧米諸国から近代化を学び、西洋の文化を取り入れながら国力を上げるべく奮闘していくわけですが、その際に「新しい政府」の象徴を作らなくてはいけません。

そこで、無血開城によって明け渡された江戸城を皇居として使うことを決めました。

冒頭「明治時代から皇居が京都から東京に移動された」というのは一連の流れが理由だったのです。

また、江戸は交通や経済が発達して日本有数の都市となっていたので利便性が高く、また民衆が「江戸=政権がある場所」と認識が浸透していたのも、江戸城を皇居として使うメリットがあったといえるでしょう。

そして、江戸は「東の京(みやこ)」である「東京」に名を変え、首都も京都から東京へと移りました。

首都を京都から東京に移したのは、東西のパワーバランスを取りながら新しい政府の運営を進めていく目的もあったのです。

京都にあった当時の皇居はどうなった?

京都にあった当時の皇居は「京都御所」(きょうとごしょ)として一般公開されています。
宮内庁が管理している建物のため外観のみの見学ですが、2016年から通年公開されるようになりました。
京都旅行の際にはぜひ足を運んでくださいね。

まとめ:
現代の皇居には歴史の影響が色濃く残っていた

皇居の歴史や東京に移動した理由は果てしない日本の歴史が大きく影響し、現代でも色濃く残っていることを考えるとロマンがありますね。

江戸時代後期は「幕末」(ばくまつ)と呼ばれ、激動の時代には多くのドラマが生まれました。
立場が異なる人々の間では時に対立や争いがありましたが、皆に共通しているのは祖国である「日本をより良い国にし、未来の人々には笑顔で暮らしていて欲しい」という願いがあったのでしょう。

現代日本に暮らす筆者はこの記事を書きながら彼らの活躍や願いに対して改めて思いを巡らせ、また穏やかで平和な暮らしに感謝の思いを抱きました。

皆さんも皇居周辺に向かわれた際は、ぜひこの歴史や人々の願いに触れていただければ嬉しいです。

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