
日本史を語るのに欠かせない。天下統一に大きく関わった3人の武将の生き様とは
室町時代と江戸時代の間に、日本では戦乱の世がありました。
それは戦国時代です。
多くの武将が太平の世を築こうと、天下を取るべく多くの争いが生まれ、人々が天へ旅立っていきました。
一方で、魅力あふれる武将の人柄や逸話は今でも日本人に愛されています。
その中でも、とりわけ天下統一に大きく関わった3名の武将がいたのはご存知でしょうか?
歴史の教科書に掲載され、日本史を語るに欠かせない彼らの活躍を覗いてみましょう。
抑えておきたい3人の武将

今回取り上げる3名の武将は織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の3名です
彼らがどのような特徴と活躍をしたのか、詳しく見ていきましょう。
織田 信長 (おだのぶなが)

始めに天下統一へ向けて動いた武将です。
当初は尾張国(現在の愛知県西部)を治めていました。
転機となったのは桶狭間の戦いです。
当時有力武将だった今川義元を破ったのを機に勢力を広げました。
その力は年々強くなり、東北の伊達氏や九州の島津氏、四国の長宗我部氏といった有力な武将も信長に従う意思を見せたほどです。
また、長篠の戦いでは最強と呼ばれていた武田氏の騎馬隊を破り、勝利を収めました。
勝因の1つは当時最先端だった武器「火縄銃」を取り入れたことだと言われています。
その先見の名は戦い以外でも発揮され、安土城の設計や楽市楽座の開始などの文化の発展にも寄与しました。
信長は武力で天下を平定させる「天下布武」を掲げ、天下統一を目指しました。
しかし、悲願を達成する直前に家臣の明智光秀(あけちみつひで)が起こした本能寺の変によって、炎の中へ消えていきました。
「尾張のうつけ者」と先見の明
当初信長は周囲から「うつけ者(ぼんやりとした間抜け)」と揶揄されていました。
その原因は彼の振る舞いが原因といわれています。
- 肌を守るためにある浴衣の袖を外すなど、当時としては考えられない奇抜な服装をした
- 寺院での葬儀で抹香を位牌に突然投げつけた
- 悪友とつるんで街を遊び歩いていた
しかし、奇抜な振る舞いは先見の明があるとも言い換えられます。
そのため、彼を見て「やがて天下を取る男だ」と評した方もいたようです。
信長は苛烈な性格ながらも、高いカリスマ性で現代でも多くの人々を魅了しています。
「浅井三姉妹」の叔父にあたる
彼の家臣であり、今回題材として取り上げる豊臣秀吉、徳川家康とは上下関係だけでないつながりがあります。
それは「婚姻関係」です。
当時の武家の結婚は、政略結婚として一族のパワーバランスを保つ目的もありました。
ちなみに秀吉は側室で淀殿、家康は三男の徳川秀忠の正室へお江与の方を迎えていますが、彼女らは織田信長の姪にあたります。
彼女らは「浅井三姉妹」と呼ばれ、戦国時代に活躍した女性たちです。
後に天下統一に大きく関わる家臣たちが、自身の姪と婚姻関係でつながっていることを考えると歴史のロマンを感じますよね。
「浅井三姉妹」について
長女が淀殿、三女がお江与の方。次女は京極高次の妻常高院である。
母親は信長の妹にあたる「お市の方」。父親は信長の家臣浅井長政。
ただし、浅井家と信長は後に敵対関係になり、小谷城の戦いで浅井家を滅ぼしている。
豊臣 秀吉 (とよとみひでよし)

元は「木下藤吉郎」といい、貧しい農民出身でした。
しかし、優れた才能と持ち前の人柄を発揮し、織田信長に取り入れられ出世していきます。
主君の織田信長から「猿」と呼ばれつつも、腕前は認められていたようです。
織田信長が本能寺の変で命を落としてからは、持ち前の人心掌握術を用いて天下統一を進めました。
1590年に北条氏を滅ぼしてほぼ天下統一を成し遂げます。
その後太閤検地や刀狩など、近世における政治の基礎を築きました。
草履の伝説

本来秀吉は農民のはずでしたが、なぜ武将として関白にまで昇りつめたのでしょうか?
そのきっかけとして「草履」の伝説が伝えられています。
秀吉は信長に仕えていた頃、雪の降る寒い中懐で草履を温めました。
その心くばりに感激した信長が、彼を家臣としてより可愛がるきっかけにつながったと言われています。
幕府を開かず関白になる
鎌倉時代から武士の世になり、「幕府」と呼ばれる組織が政治の実権を握っていました。
しかし、秀吉は「ほぼ」天下を統一したのに関わらず、なぜ自身の幕府を開かなかったのでしょうか?
この理由は諸説ありますが、1つに「秀吉の出自」が影響していたことが挙げられます。
当時将軍として幕府を開くには、朝廷から「征夷大将軍」に任命される必要がありました。
その条件の1つに、本人の家柄が挙げられます。
ここで秀吉の出自が「農民」であることを考えると、将軍になるには引っかかってしまうのです。
周囲と様々なやり取りをする中で、秀吉は当時権威が薄れていた関白職に目をつけました。
当時は家柄である程度身分や仕事が決まる時代。
だからこそ、秀吉は「少しでもなりたい自分」のためにできる全てを尽くしたのではないかと、筆者は考えます。
徳川 家康 (とくがわいえやす)

元は三河(現代の愛知県東部)を治めていた小さい武将の出身でしたが、織田氏と今川氏の人質となりました。
桶狭間の戦いでは今川氏につきましたが、後に離反します。
織田信長が今川義元を破ると、彼と同盟を結びました。
織田信長と同盟を結んだ後も、謀反の疑いで正室(正妻のこと)と世継ぎの長男を失うなど苦労が続きます。
本能寺の変以降は豊臣秀吉と後継者争いを繰り広げるも、彼の手腕を悟り一旦は臣下に下ります。
豊臣秀吉が世を去った後、天下統一に向けて世継ぎである豊臣秀頼と淀殿を相手に天下を手にすべく争いを繰り広げました。
関ヶ原の戦いと大阪冬の陣・夏の陣を経て天下統一を果たしました。
その後江戸幕府初代将軍となり、後に15代続く江戸時代が始まっていくのです。
2代将軍秀忠と豊臣家との関係
江戸幕府の将軍の多くは名前に「家」がつきます。
しかし、名前に家がつかない将軍は4人存在し、その1人が2代将軍秀忠です。
秀忠は一時期人質として秀吉のもとにいました。
人質として送られたのは元服前だったため、秀吉の名の一部を与えられ「秀忠」と名乗ることになりました。
「忠」という漢字の意味の1つに、「主君に臣下として真心をつくして従う」というものがあります。
つまり、当時敵対関係にあった家康に対して「自分に従う」という意味を与えたかったのではないでしょうか。
また、秀忠の正室はお江与の方ですが、彼女は秀吉の側室である淀殿の妹です。
さらに、夫婦の長女である千姫は秀吉の息子である秀頼に嫁いでいました。
敵対関係にありながらも、豊臣家とは家同士の繋がりが多いことがわかります。
「たぬき親父」と耐え忍ぶ力

家康のあだ名に「たぬき親父」というものがあります。
これは丸々とした容姿と70代で天下を取ったエピソードが影響しています。
一方で、「たぬき親父」という言葉は「年配ながらも、ずる賢い男性」という意味を持ちます。
なぜ彼がたぬき親父と呼ばれるようになったのか。その理由について見ていきましょう。
① 天下統一を果たした年齢が70代だった
戦国時代当時、武士の平均寿命は40代だったといわれています。
秀吉が62歳で生涯を閉じても、当時としては長生きと言われる年齢だったのです。
そして、家康が天下統一を果たした年齢は73歳でした。
平均寿命を大幅に超えてなお悲願を果たそうとする思いの強さがひしひしと伝わります。
② 敵対していた相手との年齢・経験差
秀吉亡き後、家康は豊臣家の後継ぎである豊臣秀頼と、彼の母である淀殿と敵対します。
当時秀頼は20代と若く、武士としての経験や知識はまだ浅い立場でした。
一方で、70代である家康は人生経験も豊富で、かついくつもの修羅場を潜り抜けた武士です。
自身が培った経験や知識をもとに、あの手この手で豊臣家を追い詰めていくのです。
③ 言いがかりで秀頼を陥れた?
たぬきには「妖術やたぬき寝入りで人を騙す、ずる賢さを持つ」イメージがあります。
家康も秀吉亡き後、豊臣家に突然言いがかりをつけて大阪冬の陣を引き起こしました。
その言いがかりが「方広寺鐘銘事件」です。
方広寺にある大鐘を奉納した際、家康はある2つの銘文に対して不敬・呪詛であると激怒しました。
それは「国家安康」と「君臣豊楽」です。
2つの用語はそれぞれ「国(天下)が安泰であり、君主・臣下が豊かで楽しく暮らせるように」というう意味を持ちます。
しかし、家康は自身の名が分かれて記載される一方、豊臣家の文字がくっついていることが不吉だと主張したのでした。
なお、方広寺は現代の京都府東山区にあり、秀吉が大仏を安置するため1595年に創建されました。
初代大仏は1596年に発生した慶長伏見地震によって倒壊したため、秀吉没後に二代目が建立される計画が立てられます。
つまり、秀吉ゆかりの寺社であり、かつ仏教の権威が及ぶと家康の天下統一に大きな影を落とすと考えたのでしょう。
④ さらに、豊臣家の内部分裂も謀っていた?
前述の方広寺鐘銘事件では、建立に関わった豊臣家の関係者が家康のもとに呼び出されました。
家臣である片桐且元と大野治長、銘文を起草した禅僧清韓は誤解だと弁明しますが、家康は聞く耳を持ちません。
一方で、淀殿の乳母で大野治長の実母である大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)はすんなりと面会を許されます。
それどころか鐘銘のことは話題にあがらず丁重なもてなしを受けたようです。
これらの対応から、家康は騙し合いを謀っているのではないかと豊臣家から不審がられるのでした。
さらに、且元は秀頼と淀殿にいずれかの条件を承諾するよう、家康が提示していると話します。
- 秀頼が駿府と江戸に参勤する。
※参勤:出仕して主君に仕えること。ここでの主君は家康を指す。 - 秀頼が大坂城を出て、国替えを行う。
- 淀殿を江戸詰めにして、徳川家の人質として扱う。
もちろん、これらの条件をのめる秀頼と淀殿ではありません。
2人は激怒し、且元を暗殺しようと動きました。
さらに、他の豊臣家も且元が家康側についたのではないかと疑念を深めます。
一連の言動に危機感を感じた且元は豊臣家の元を離れ、その様子を見た一部の家臣も豊臣家を見限りました。
現代の研究では徳川家側が内部分裂を工作してはいないと解釈しています。
とはいえ、結果として言いがかりから内部分裂のような構図になり、果ては豊臣家が滅亡してしまいました。
家康が豊臣家にした言動について考える
自分より一回りも二回りも若い相手に言いがかりをつけ、内部分裂をさせてまで天下統一を我が物にしようとした家康。
彼の動きは、一見武士道に反しているといえるでしょう。
しかし、彼の人生は幼少期から何度も悔しい思いをしてきました。
小さい国で生まれ幼い頃に人質となり、ライバルの信長・秀吉とは勢力争いで配下につきます。
何より、自分では対峙しきれない大きな権力で領地、正妻、長男といった大切なものを手放し続けました。
何度辛酸を舐め続けても、家康は諦めず天下統一のチャンスを待ち続け、ついに自身の幕府を開くのです。
きっと家康は例え自分が後世に悪く言われても、天下統一を果たし平和な世を築きたいという思いは誰よりも1番強かったのではないか。
そう筆者は感じます。
3人の人柄を表す逸話
信長、秀吉、家康3人の人柄を表す川柳と短歌があります。
それぞれどのようなものか、見ていきましょう。
ホトトギスが鳴かない時の対応

ホトトギスは夏の到来を告げる渡り鳥で、ウグイスとともに季節の訪れを感じる鳥として人々に親しまれています。
夏の訪れを待ち望む人々にとってホトトギスの鳴き声は重要ですが、もし鳴かなかったら3人はどう対処するのでしょうか。
- 鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス (信長)
- 鳴かぬなら 鳴かせてみよう ホトトギス (秀吉)
- 鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス (家康)
鳴かないなら怒って殺してしまうのは信長の苛烈さを表現しています。
一方で、鳴かないならあの手この手で鳴かせる工夫をするのは、秀吉の手腕をよく表していますね。
ゆったりと構え、機が熟すまでじっくりと待つのは家康の天下統一を掴む様子が見えてきます。
「天下もち」の行方は誰の手に?

「もち」は正月に日本で食べられるおめでたい食材です。
平安時代では「三日夜餅」として、結婚のお祝いとして夫婦が食べていましたね。
では、天下統一を祝う「天下もち」は誰の手に渡ったのか。見てみましょう。
織田がつき 羽柴がこねた 天下もち 座りしままに 食うは徳川
この句にある「羽柴」は秀吉のことを指します。
当時、戦国武将の名字や名前が元服や出世をきっかけに変わることは珍しいことではありませんでした。
信長が基礎を築いた天下統一を、秀吉が一度日本を統一する。
その後家康が豊臣家を滅ぼした後に、自身が開いた江戸幕府が後世の日本の政治を担う。
「天下もち」に例えると、信長と秀吉が頑張って作ったおもちを家康が座ったまま一人でおいしく味わっているようです。
この句でも少しだけ家康が「たぬき親父」に見えてしまうのは、私だけでしょうか。
ユーモアとほんの少しの皮肉が、読み手から感じられる面白い句です。
まとめ:
3人の人柄と生き様が異なるのが面白い

天下統一に大きく関わった信長、秀吉、家康の3人ですが、その人柄や生き様は大きく異なります。
その違いや各々の手腕、エピソードは、現代でも通用する点が多いです。
これらは多くの人々を魅了し、教訓として受け継がれる理由ではないでしょうか。
この3人以外にも、戦国武将は多くの魅力溢れる人々が一所懸命武士道のもとに生き抜きました。
また別の記事にて、彼らの魅力をご紹介していきたいと思います。














